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東京地方裁判所 平成2年(行ク)12号 決定 1990年4月25日

主文

一  本件申立てを却下する。

二  申立費用は申立人の負担とする。

理由

第一  本件申立てに関する事実経過

一  東京高等裁判所は、平成二年二月二三日、東京高等検察庁検察官の審査の請求を受けて、同裁判所同年(て)第三七号逃亡犯罪人引渡審査請求事件の審査を開始し、同年四月二〇日、逃亡犯罪人引渡法(以下「引渡法」という。)一〇条一項により、申立人を逃亡犯罪人として中華人民共和国(以下「中国」という。)に引き渡すことができる場合に該当する旨の決定(以下「本件決定」という。)をした。

二  これを受けて、相手方は、同月二三日、引渡法一四条一項により、申立人を逃亡犯罪人として中国に引き渡すことが相当であると認め、東京高等検察庁検事長に対し、申立人を逃亡犯罪人として中国に引き渡すべき旨を命じた(以下、この命令を「本件命令」という。)。

三  申立人は、同日、当裁判所に、本件命令の取消しを求める訴え(以下「本案訴訟」という。)を提起するとともに、本件命令の執行停止を申し立てた。

第二  当裁判所の判断

一  回復の困難な損害を避けるための緊急の必要について

引渡法の定めるところによれば、相手方の発した本件命令が執行されると、申立人は請求国たる中国の官憲からの引渡しの求めに応じて同国の官憲に引き渡され(引渡法一六条から二〇条まで)、すみやかに同国内に護送されることとなる(引渡法二一条)。しかも、この引渡しの期限は、引渡命令の日の翌日から起算して三〇日目の日と定められている(引渡法一五条)。

そうすると、本件命令が執行されると、間もなく申立人が同国官憲に引き渡されることによってその執行が終了してしまい、本件命令の取消しを求める本案訴訟はその訴えの利益を失うに至ることが明らかである。しかも、事柄の性質上、申立人が本件命令によって被る損害を後に本案訴訟以外の他の方法で回復することは困難なものと考えざるを得ない。

したがって、本件にあっては、処分の執行によって生ずる回復の困難な損害を避けるための緊急の必要が存在しているものと認められる。

二  本案について理由がないとみえるときに当たるか否かについて

1  本件執行停止の申立てが「本案について理由がないとみえるとき」に当たるか否かの判断は、本件命令の取消しを求める本案訴訟において当裁判所が審理判断することのできる事項の範囲がどのようなものであるかと密接に関連する面がある。そこで、この点の判断を行う前提として、まず、この本案訴訟で当裁判所が審理判断することのできる事項の範囲について検討を加えておくこととする。

(一) 引渡法の定める逃亡犯罪人引渡しの手続が一種の行政手続に属することはいうまでもないが、この手続においては、通常の行政手続の場合とは異なり、一定の時期において、その手続を続行していくための要件の存否について東京高等裁判所の司法審査を経ることが要求されている。すなわち、法務大臣は、逃亡犯罪人の引渡しを命ずる命令を発するには、まず東京高等検察庁検事長に対して、逃亡犯罪人を引き渡すことができる場合に該当するかどうかについて東京高等裁判所に審査の請求をなすべき旨を命じなければならず(引渡法四条)、この審査の請求を受けた東京高等裁判所が審査の結果に基いて逃亡犯罪人を引き渡すことができる場合に該当するとの決定をしたとき(引渡法九条、一〇条)に初めて、更に逃亡犯罪人を引き渡すことが相当であるか否かの判断を行ったうえで、引渡命令を発することができることとされているのである(引渡法一四条)。引渡法が逃亡犯罪人の引渡しについてこのような慎重な手続を要求している理由が、この手続が引渡しを求められている者の人権にも深くかかわる手続であることにあるのはいうまでもないところであり、そのため、この審査の手続においては、<1>東京高等裁判所の審査及び決定は、同裁判所が裁判官の合議体で取り扱い(裁判所法一八条)、<2>審問期日の手続は、原則として公開の法廷において行うものとされ(逃亡犯罪人引渡法による審査等の手続に関する規則(以下「審査規則」という。)二〇条)、<3>逃亡犯罪人は、右の審査に関し弁護士の補佐を受けることができ(引渡法九条二項、審査規則一五条、一六条)、<4>弁護士は、拘禁されている逃亡犯罪人と接見等をすることができるとともに(審査規則一六条)、審問期日の手続に立ち会い、意見を述べ、また証人等を尋問することができ(引渡法九条三項及び四項、審査規則二二条)、<5>裁判所の決定については、理由を付し、裁判書を作ることとされている(審査規則二五条)等、刑事裁判手続と同様の慎重な手続によって、逃亡犯罪人を引き渡すことができる場合に該当するか否かの司法判断を行うこととされているのである。ただ、この手続が犯罪人の引渡しという急速を要する手続であることから、引渡法は、右の点に関する司法審査を専ら我が裁判所制度上の上級の裁判所である東京高等裁判所において行わせ、しかもその判断を最終の判断とすることとしたものと考えられる。

(二) 右のような制度の趣旨からすれば、この逃亡犯罪人の引渡手続においては、引渡法二条各号に掲げられた引渡制限事由の存否はもとより、それ以外の法律上又は条約を始めとする国際法規上の引渡制限事由の存否に関しても、その法的な判断は専ら右の審査手続における東京高等裁判所の判断に委ねられており、法務大臣が引渡命令を発するに当たっても、逃亡犯罪人を引き渡すことができる場合に該当するか否かの点についてはこの東京高等裁判所の判断に拘束され、東京高等裁判所において引渡しをすることができる場合に当たるとの判断が出された場合には、その法的な判断を前提として、なお当該引渡しを行うことが相当であると認められるか否かを専ら行政的な観点から判断し得るに過ぎないものと考えられる。

(三) ところで、本件命令の取消しを求める本案訴訟においては、右のような手続を経て発せられた法務大臣の引渡命令に何らかの違法事由があるか否かが審理判断の対象となるものであることはいうまでもない。しかしながら、その違法事由として主張される事由が、法律又は条約等の国際法規上逃亡犯罪人を引き渡すことができない場合に該当するのにこれを誤って引き渡すことができる場合に該当すると判断しているというものであるときは、その点は当裁判所の審理判断の対象事項とはなり得ないものといわなければならない。けだし、前記のような手続の仕組からすれば、この点については既に東京高等裁判所の最終的な司法判断が出されており、法務大臣にはこの判断と異なる判断を行う権限が与えられていないのであるから、この点に関する法務大臣の判断の誤りが本件命令の違法事由を構成し得る余地がないからである。また、この法務大臣の判断の適否という観点を離れて、直接東京高等裁判所のしたこの点に関する判断の誤りを主張するのであれば、この東京高等裁判所の行う審査手続について上級審の立場を付与されているわけでない当裁判所がその点を審査する権限を有していないことは明らかなものというべきである。

(四) 結局、本案訴訟において、法務大臣の発した命令の違法事由として当裁判所がその存否を審理判断できるのは、逃亡犯罪人を引き渡すことができる場合に該当するか否かの点に関する法的判断を除いた事項、すなわち、法務大臣が引渡法一四条一項の規定によって専ら行政的な観点から行う逃亡犯罪人を引き渡すことが相当であるとの判断に何らかの違法事由があるか否かの点に限られるものといわなければならない。そして、この点に関する法務大臣の判断が請求国に対する外交的配慮、国内の法秩序維持上の必要、当該逃亡犯罪人の人権保護その他の要素を総合考慮してなされるべき高度に政治的、裁量的な判断であると考えられることからすれば、その判断は、社会通念に照らし著しく妥当性を欠くことが明らかでない限り、裁量権の範囲を超え又はその濫用があったものとして違法とされることはないものというべきである。

2  そこで、以上のような考えを前提として、本件執行停止の申立てが「本案について理由がないとみえるとき」に当たるか否かについて判断する。

(一) まず、申立人は、本件命令には、難民の地位に関する条約三三条を受けた出入国管理及び難民認定法五三条三項の規定、市民的及び政治的権利に関する国際規約七条の規定並びに難民の地位に関する条約一条A項及びF項の規定の解釈を誤った違法があるとして、縷縷その根拠とするところを主張する。

しかしながら、申立人のこの点に関する主張は、結局、相手方がこれらの規定の解釈適用を誤ったため、法的にみて逃亡犯罪人を引き渡すことができない場合に該当するのにこれを引き渡すことができる場合に該当するとして本件命令を発したものであり、その点で本件命令が違法であるとするに帰着するものといわなければならない。

そうすると、この点は、前記のとおり、本案訴訟において本件命令の違法事由として主張することができない事項に当たることが明らかであるから、この点に関する申立人の主張は理由がないものというべきである。

(二) 次に、申立人は、本件においては、本件引渡犯罪の性質、引渡請求国たる中国の法制における罪刑法定主義の欠如、同国の刑事手続における人権保障の欠如等の点からして逃亡犯罪人を引き渡すことを不相当とする事情が存在することが認められるのに、相手方がその裁量権を逸脱して引き渡すことが相当であると判断した違法があると主張する。

確かに、関係資料によれば、本件引渡犯罪に係る行為に関する中国における刑罰法規の解釈、適用の方法については、我が国の刑法が採用している近代刑法の原理とは一部合致しない点があることが認められ、また、中国における犯罪捜査や刑事裁判手続の運用の実情についても、種々の問題があることを指摘するものが少なくない。

しかしながら、中国における法解釈や刑事手続の運用の実情に我が国の憲法法規等を前提とした場合には問題と考えられる点があったとしても、そうした違いは独立国家間における法制の相違という事柄の性質上、ある程度はやむを得ないこととしなければならない。しかも、本件の場合は、中国側から、引渡し後の申立人に対する処罰が、本件引渡犯罪に係る行為のみを対象として、かつ、一定の有期懲役刑の範囲内で行われること、また、申立人に対する刑事手続についても、被疑者及び被告人の人権保護のための各種の措置、制限を具体的に定めた中国法の規定に基づいて適正な刑事手続を進めることを保証する旨が、公式に表明されていることが認められるのである。

他方、本件引渡犯罪は、民間航空機に対するハイジャック事犯という、現在世界の各国でその根絶を図るために強い国際的協力が求められている重大事犯であり、しかも東京高等裁判所において、その内容が引渡法上保護を要するほどの政治的性質を有する犯罪には該当しないとの判断が出されている。更に、刑事手続の的確な追行という観点からは、本件引渡犯罪が中国籍の航空機内で行われた犯罪で、その乗客、乗員もほとんどが中国人であり、主要な証拠が中国内に存すること等からして、右手続を中国で進めることに望ましい面があるとも考えられる。

以上のような事情のもとでは、請求国に対する外交的配慮等をも含めた諸々の要素を総合考慮してなされるべき高度に政治的、裁量的な性質を有する相手方の本件における判断が、社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかであるものとまではいえず、それが違法であるとすることは困難である。

そうすると、この点に関する申立人の主張も理由がないものといわざるを得ない。

(三) 結局、本件執行停止の申立ては、「本案について理由がないとみえるとき」に当たるものというべきである。

三  結語

よって、本件申立ては、理由がないこととなるから、行政事件訴訟法二五条三項によりこれを却下することとし、申立費用の負担について、同法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 涌井紀夫 裁判官 市村陽典 裁判官 小林昭彦)

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